この1年半ほど、「大学業務としてのブログ」の可能性を探ってきましたが、だいたい状況が分かってきました。結論から言えば、メリットよりもデメリットのほうが大きいですね、日本では。
加えて、いろいろな事情があって、このブログの継続は事実上不可能になりましたので、本日をもって更新を停止することにいたしました。
長い間、ご愛読ありがとうございました。
この1年半ほど、「大学業務としてのブログ」の可能性を探ってきましたが、だいたい状況が分かってきました。結論から言えば、メリットよりもデメリットのほうが大きいですね、日本では。
加えて、いろいろな事情があって、このブログの継続は事実上不可能になりましたので、本日をもって更新を停止することにいたしました。
長い間、ご愛読ありがとうございました。
今日は保護者懇談会のために大学に来ています。
さて、今年は卒業論文で「NEET概念の社会的構築」について扱う学生がいます。イギリスで提唱された「NEET」という言葉が日本に輸入されるとき、どのように意味の変質が生じたか、というテーマです。
この問題を追究していくためには、サッチャー時代のイギリスについても詳しく知る必要があるのですね。
で、その時代の文芸や映画などについてどれくらい知っているか確かめようと思って、ふとこの歌のことを思い出して聞いてみました。
「ケイト・ブッシュって知ってる?」
「知りません」
あっさり撃沈。テレビ番組「恋のから騒ぎ」のオープニングテーマ曲の歌手っていえばよかったのかな。
ともかく、Peter Gabriel&Kate Bushの"Don't Give Up"は、サッチャーリズムの構造改革が吹き荒れるイギリスで、失業からNEET化しつつある労働者のことを歌った名曲です。いわばNEETの応援歌とでもいうべきもの。ところが、失業の挫折に苦悩する主人公は、日本における「ニート」のイメージとはまったく違います。
ま、次は映画『リトル・ダンサー』でも紹介してみましょうかね。
ようやく愛車が車検から戻ってきました。二週間以上もお気楽マシン(F650GS)に乗っていましたので、「こんなに難しいノリモノだったっけ」という感覚がまだ抜け切れません。でも、やっぱり自分のバイクはいいものです。愛着がある。
ところで、もう5年ほど前の話になりますが、ぼくがPDAを持ち歩いているところを見て、臨床心理のI先生が話しかけてきました。
| I先生 | bruinさんはそういうのが好きね。前も携帯電話で会議のメモをとってたでしょ。 |
| bruin | 特別好きってわけじゃないですけど、ぼくは忘れっぽいから電子メディアに管理してもらわないとダメなんですよ。 |
| I先生 | 好きなのね? |
| bruin | いや、好きというか、携帯なんかどうせ持ち歩くならスケジュール管理をかねたほうが便利だし/ |
| I先生 | 好きなのね? |
| bruin | いやいや、PDAは来年アメリカに行ったとき迷わないようにGPSつきの機種で/ |
| I先生 | 好・き・な・の・ね?! |
| bruin | …はい orz |
いや、さすがは臨床家というべきか、ひとたび認めてしまうと、「そういえば好きなんだな」と公平に評価できるようになったりします。(ホントか?)
前にも書きましたが、今回の車検では、研究用途をかねて、ZUMO550(パーソナルナビ)とFTM-10S(無線機)を付けてもらいました。どちらも最初は自分で作業するつもりでしたが、「1万円でいい」という話だったのでディーラーに取り付けをお願いしました。ケーブルなんか、さすがにキレイにとり回ししてくれています。
これがねー、うれしいんですよ。モノ自体にけっこうワクワクしてしまうんです。新品のミニカーにドキドキした子どものころから変わってないんだなと実感しますね。
車検+αのために愛車をディーラーに預けて2週間あまりがたちました。代車はいつもの通りF650GSです。
フルモデルチェンジしてしまいましたが、旧F650GSはいいバイクですよ。軽いし、フラットなトルクで扱いやすいし、適度に反応がノロいので原付並みにアクセルを開けられるし(笑)、なのに4千回転以上まで回してあげるとちゃんと気持ちよく走ってくれるし。車体の重量バランスもいいです。200kgを切ってますからね、スタンディング・スティルである程度がんばれてしまいます。ぐらついても両足がべったりつきますし。とにかく素直なヤツです。
ところが、BMWのバイクをテーマにしている雑誌では、繰り返し繰り返し、「ビッグシングル(単気筒)なので低速がニガテ」と評価されてきました。いったい、どんなバイクと比べて「低速がニガテ」といっているのかぼくにはわかりません。
なぜなら、まずエンジンの粘りについていえば、旧F650GSは低回転でも粘ってくれます。1500回転以下でも十分に実用に足ります。トルク不足でエンジン音が変わるようなときでも、エンストしそうな気配がありません。また、操作性についていえば、軽いので極低速でややふらつくきらいもありますが、逆に軽いおかげで修正も容易です。
一方、ぼくの愛車であるR1150GSは、とにかく低速がニガテです。GSにかぎらず、Rシリーズは全般的に低回転での粘りがありません。2000回転を下回るとエンジンが不安げな音をあげはじめ、スロットル操作がいーかげんだとすぐにエンストします。多気筒バイクに慣れたライダーは、最初だいたいエンストさせてしまいますね。しかも、2気筒なので多気筒エンジンに比べて低速でふらつきます。そして、ふらついたとき、車体が重たいので修正も大変です。
にもかかわらず、やはりBMWのバイクをテーマにしている雑誌では、繰り返し繰り返し、「水平対抗エンジンなので低速でも安定している」と評価し続けてきました。最近になってようやく「じつは低速がニガテ」という記述をちらほらと見かけるようになってきましたが、大方の論調は今でもやはり「低速でも安定している」というものです。
いや、たしかに、低速でも安定しているといえないことはありません。回転数をしっかり上げてやっておけばね。回転をあげてもスピードが出すぎないように、リアブレーキを引きずるか、半クラッチを使わなければなりませんが。
けどね、そこまでムリをしないとエンストしたりふらふらしてしまうようなバイクを「低速で安定している」などと持ち上げておきながら、なぜ、F650GSを「低速がニガテ」などとナンセンスな貶し方をしてしまうのか。まったく不思議でしょうがない。
もしかして、Rシリーズは「(超低速はすっごいニガテだけど)低速で(なら)安定」している、という意味か?
「炎上」騒動の何がキモチワルイかというと、騒動をめぐるすべての言説が「擁護派/抗議派」という乱暴な二分法に回収されてしまうことですね。「ネットの『炎上』と偏見の形成」というエントリーでも間接的に触れましたが、ひとたび「炎上」するや、あらゆる言説を「擁護派/抗議派」という二分法に位置づける推論構造が言論空間を支配していく。そして、偏見によって捻じ曲げられたストーリーが多数派の認知を支配し、「事実」として語られていく。
騒動に参加する者たちは、それがファシズムの原初的形態であるとは学ばなかったようです。
今回の瀬尾氏のブログをめぐる騒動についても、容易には回答を出せない論点が多数含まれています。憲法規定(表現の自由)と市民社会の正義の矛盾、市民社会と大学との間の経済的共生と道義的対立の矛盾、経営リスクと学問の自由の矛盾、あるべき大学像と教員の資質の矛盾、等々。本来なら、論者が一定の結論に到達するときにもさまざまな限定条件や留保条件がつけられるべきテーマです。
それが、言説が流布されたとたんに限定条件や留保条件が取り去られ、「擁護論/反論」と単純化され、もはや元のロジックの原形をとどめない状態に捻じ曲げられたうえで、気分まかせの乱雑な憂さ晴らしの材料として消費されてしまう。
例えば、apj氏の「大学教員が発信した情報の責任は教員個人が負うべきである」という論考の、いったいどこをどう読めば瀬尾氏の擁護論と解釈できるというのか。
不思議を通り越して、不気味としかいいようがない。
ネットの世論は、必要に応じて主体的な市民が討議を交わし、複雑な問題についても“新たな理解”へと導く「創発民主制」の可能性を秘めています。その反面、気分まかせで情緒的な言説を垂れ流しあえば「創発ファシズム」を招来する危険性もあります。
表現の自由は、ファシズムを強く反省するところから重要性が認められてきたということを、今一度、肝に銘じたいものです。
今日はひさしぶりにオートバイの話です。
先日、ふと気になって、オートバイの車種ごとに乗車姿勢がどのように違うかを解説したウェブサイトがどれくらいあるのか、少しだけ調べてみました。2時間ほど探して、ごく簡単な記述があるページを2つほど見つけることはできましたが、詳しく解説してあるページは一つもありませんでした。
まぁ、バイクの乗り方なんて、読んだだけでは分かりませんからね。実際にまたがって、運転してみて、その合理性を納得できないかぎり、「こうやって乗るものだ」といわれたところで、実践してみようという気にはならないでしょう。
とはいえ、自転車については、ロードバイクとオフロードバイクの乗車姿勢や乗り方の違いを丁寧に解説したウェブページが多数あります。他のスポーツだって、入門者向けにその種の情報を提供するサイトは少なくありません。それに対して、オートバイははるかにユーザーが多いにもかかわらず、なぜもっとも基本的な乗車姿勢についての解説ページがないのか、ちょっと興味深いところです。
ともかく、乗車姿勢からいえば、オートバイは3つのカテゴリーに大別することができます。(1)オンロードバイク、(2)オフロードバイク、(3)クルーザー(アメリカン)やスクーター。教習所では教えてくれませんが、この3者はバイクの性質が大きく異なりますので、乗車姿勢や乗り方にもいろいろと違いがあります。
たとえば、オンロードバイクとオフロードバイクの乗車姿勢を比較すると、だいたい下の表のようになるでしょうか。個々人の好みによるところも大きいので、これが唯一の正解ということではなく、基本姿勢の平均的な状態を描写したものだとお考えください。
| 相違点 | 解説 | ||
| オン | オフ | ||
グリップ | 手首はまっすぐにし、軽く卵を握るようにグリップをつかむ | 手首はまっすぐにし、薬指と小指はしっかり握る。薬指と小指はレバーを操作するときもグリップから離さない | オフでは激しく車体が揺られるし、積極的にハンドルをつかって操作することが多いので、しっかりハンドルを握る。ただしすべての指に力を入れると腕まで動きが硬くなってしまうので、薬指と小指だけでぎゅっと握るようにする。 |
上体 | 自然な姿勢のまま、上体だけ前傾する | びしっと背筋を伸ばして垂直に上体を立てる | 運転中に上体を柔軟に動かしてバランスを取ることは共通しているが、オフでは前後左右上下に車体が振られるので、オンよりも上体の自由度を高めておく必要がある。 |
腕 | 上腕以外は力を抜いて45度くらいワキを開く | 地面と水平になるくらいワキを90度開く | どちらもワキはしめずヒジは外を向けるが、オフでは激しく左右にハンドルが振られたときヒジが体にぶつからないように、あらかじめ高く上げておく。 |
尻 | 一度ステップに立ってから自然とシートに腰を下ろす | タンクに股間がつきそうなくらい前乗りする | 前後左右に柔軟に腰を動かしてバランスを取ることは共通しているが、オフでは前輪の加重不足が挙動を不安定にする場面が多いので、できるだけ前加重にする。後加重にするとき体を大きく動かせるメリットもある。 |
ヒザ | 腿全体でタンクを軽くホールド(ニーグリップ) | ヒザで自由にバランスを取れるようにタンクからは離しておく | オフでは激しく車体が揺られるので、ニーグリップしていると体まで一緒に揺れてしまう。車体を股下で遊ばせることで激しい挙動を吸収する。オンでもハイサイドのときは同じ。 |
かかと | ステップから少し後ろに引いて車体をホールド | ステップから少し後ろに引いて車体をがっちりホールド | ロール方向の動きを制御するために、かかとでしっかり車体をホールドすることは共通している。ただし、ニーグリップしない分、オフのほうがよりしっかりとホールドする必要がある。 |
つま先 | 外に開かずまっすぐ前を向けてペダルの上に置く | 角度は外に開いてもいいけど、ペダルの下に置く | オンでヒザとつま先が外に開くスタイルは「族乗り」と呼ばれて蔑まれる。というより上手に曲がれない。また、ペダルの下につま先を置いていると、バンク角が大きくなったとき地面に挟まれて怪我をする。 オフでは、ブーツを履いていると足首が曲がらないので、つま先をペダルの上には置けない。ブレーキやシフトチェンジは、脚全体を動かして操作する。 |
上の表は、オンロードバイクでオンロード(舗装道路)を走行するときと、オフロードバイクでオフロード(非舗装道路)を走行するときの乗車姿勢の違いを比較したものです。他にも、乗車姿勢だけでなく操縦方法にもいろいろな違いがありますので、機会があればまた後日書いてみたいと思います。
上の表について面白いのは、オフロードバイクでオンロードを走行するときにはどうなるのか?ということです。答えは、多くのオフローダーはオンロードでも上記の姿勢で走っているのですね。
確かに、オフロードバイクは、ハンドルの幅が広いし、ハンドルの位置も高めです。車体の重量バランスからいっても、前乗りすると操縦しやすい作りになっています。だから、オンロードでオフと同じ姿勢をとっても不思議ではありません。
とはいえ、上記の姿勢はかならずしも“楽”なものではないのです。なにせ、両足のペダル操作は、足首だけではなく脚全体を上下しなければなりませんし、両ヒジを高く上げておくのも疲れます。しかも、(タイヤのグリップさえ信頼できるのであれば)やはりオンロードはオンロードに向いた走り方というものがあるわけでして、オフの姿勢のままというのは必ずしも合理的とはいえません。
にもかかわらず、オンロードでもオフロードと同じ姿勢で走行するのは、これはもう「スタイル」としかいいようがありません。あるいは「文化」ですね。
走行時の衣服も、ただ舗装道路を走るだけなのに、オフロード用のヘルメットにゴーグル、モトクロス用のジャージ、オフロード用のブーツという装備でガチガチに決めている人もめずらしくありません。特に、オフ用のブーツなんて、重いし蒸れるし歩きにくいし、日常使いではいいところないんですけどね。(小柄な女性が履いていると、なぜかちょっと萌えたりしますが、それはそれとして)
クルーザー乗りがヘルズ・エンジェルズ由来の“ちょいワル”スタイルを消費するように、オフローダーは非舗装路に分け入っていく“アウトドア”スタイルを消費しているということでしょうか。
オートバイは、単なる移動手段ではなく、文化を伝えるメディアでもあるのですね。
良くも悪くも、瀬尾氏のブログに起因する騒動はひとまずほぼ鎮静化したようです。やっぱり、組織的な受け皿のない情緒的な運動は長続きしませんね。マスメディアが加担すればもっと長引いたと思いますが、個人の集積にすぎないネットが運動の母体であるかぎり、せいぜい1ヶ月が限度というところでしょうか。
さて、ある言動が「反社会的」だからという理由で非難されることはめずらしくありません。刑法に触れるような行動はもちろん、カルトなどはたとえ違法な行為を行っていなくとも「反社会的」な存在だとして批判されることがあります。瀬尾氏のケースのように、ブログの記述が倫理的に逸脱しているということで「反社会的」だと抗議される場合もあります。
では、「反社会的」とはどういうことを指すのか?
じつは、言動の性質自体から「反社会的」であるかどうかを確定するための客観的な定義は、この世に存在しません。概念的には定義できないわけではないのですが、あまりにもあいまいで流動的な要素を含んでいるため、操作的には定義できないのです。例えば『新明解国語辞典』(三省堂)にはこう書かれています。
はんしゃかいてき(ハンシャクワイテキ)【反社会的】ここでいう「法秩序」や「道徳上の社会通念」というのは、社会によっても、時代によっても変化します。しかも、人によっても判断が分かれますので、いつでもどこでも誰にでも通用する「これが反社会的な言動だ」という基準は、存在しないわけです。
その社会の法秩序にあえて反抗したり道徳上の社会通念を故意に無視したりする言動をとることによって、社会の他の成員にまで好ましくない影響を与える様子。
社会によって基準が違うというのは、例えば、東京都知事が「中国人はDNAレベルで残虐」というコラムを新聞に書いた件ですが、ヨーロッパであれば即、政治生命が終わるほどの大きな問題発言です。国によっては確実に刑法に問われるたぐいのものでしたが、日本ではごく小規模な抗議があっただけでした。
また、時代によって基準が変化するというのは、例えば、2003年時点でディクシー・チックスが「テキサスから大統領がでたことを恥ずかしく思う」とイラク侵攻を批判したことは、当時のアメリカ社会においてきわめて「反社会的な発言」だったため、様々な迫害にあい、微妙な謝罪に追い込まれました。しかし、2006年時点にはすでに「勇気ある発言」が賞賛されるようになっており、2007年にはグラミー賞の関連部門を制覇しました。これは、音楽活動だけでなく、政治的な活動を評価されてのことだというのが一般的な解釈です。
ただし、定義できないといっても、もちろん、「反社会的」な言動がこの世に存在しないという意味ではありません。
社会には規範というものがあります。それに反する言動に対しては何らかの負のサンクション(制裁、罰)が作用します。破った規範の性質によっては、嫌味をいわれるといった軽いサンクションを受けるだけのこともあります。それに対して、重大なタブーに触れたりすれば、極刑を受けたり村八分にあったりという非常に重いサンクションが及ぶこともあります。そういう重い負のサンクションの対象となるような言動に対して、一般に「反社会的」というレッテルが貼られます。
つまり、「反社会的」かどうかを決めるのは、問題とされた言動の性質ではありません。その言動をめぐる社会の価値判断(規範)が「反社会的」かどうかを決めるのです。「反社会的な言動」というものが客観的に存在するわけではなく、社会の構成員の大勢が「反社会的な言動」だとみなせば、それが「反社会的な言動」になってしまうということです。
だからこそ、何らかの出来事に対して、ネットで世論を醸成する運動にも意味がある。社会の構成員の大勢を納得させられれば、負のサンクションを発動できるわけですから。Joi Ito氏がいうEmergent Democracyは、こういう運動の理想的側面に注目した概念ですね(伊藤譲一「創発民主制」)。
ただ、1990年代以降、日本において実際にネットの運動が奏功したケースを見ると、そのほとんどは「創発民主制」というより「排除型社会」を象徴するものばかりでした。包摂より排除が、許容より不寛容が、多様性より画一性が、日本のネットを支配している。
せめて大学だけは、こういう息苦しい社会潮流から遊離した側面を捨てずにいてほしいと強く願うばかりです。
P.S.
誤解されるといけないので補足しておきますが、今回のエントリーには、瀬尾氏への抗議を批判する意図はいっさいありません。あえていうなら、そのことが分からない方を批判する意図はこめましたが。
今日は今年度初のオープンキャンパスでした。雨の中足を運んでくれたみなさん、ありがとう。
さて、4月27日以降、大学教員が所属校の外で書いた言論に対して学長が謝罪するのはナンセンスだと主張してきました。今日はちょっとテーマを変えて、大学教員の言論に対して、所属組織が懲戒措置をとることが妥当なのかどうかについて私見を書いておきます。微妙なテーマなのでこれまであえて明言はしてきませんでしたが、どうもバランスを欠いているようなので。
結論を先にいえば、「私立大学ではありうる」という話です。
27日以降のエントリーをお読みになった方の中には、ぼくが学問の自由、言論の自由を不可侵の価値だと考えて青学の学長を批判していると解釈された方もいました。実際のところ、そうとも読める内容だったと思います。でも、分かりにくいとは思いますが、27日のエントリーにコメント欄で回答したとおり、少し話が違うのですね。
(1)私立大学の主たる機能は教育
大学には、教育と研究という2つの機能があります。高度な研究があってはじめて教育も成り立ちますので、両者は不可分の関係にあります。が、あえてどちらが重要かといえば、私立大学は主として学生からの納入金によって経営されていますので、まずは学生対応すなわち教育が本分ということになります。
したがって、もし大学教員の思想、研究、言論が、主たる業務である教育に何らかの障害を及ぼすようなことがあれば、その大学教員は表現の自由に一定の制約を受けざるをえません。具体的には、授業担当を外されたり、インフォーマルな叱責の対象となることはめずらしくありません。
刑法に問われるか、セクハラやアカハラと認定されないかぎり公式に懲戒の対象になることはまずありませんが、非公式には指導が行われているということです。指導に従わない場合は、譴責等の懲戒は免れえないでしょう。瀬尾氏のブログが、「教育に何らかの障害を及ぼ」しているかどうかぼくは承知していません。でも、もしそういう事実があれば、懲戒はありうることですね。
ただし、教育を重視するあまり、学問の自由をないがしろにするような大学は、大学としての魅力を失うことになります。教育を重視しつつ、かつ、最大限に学問の自由を保障するというのがあるべき姿です。
(2)私立大学は「建学の理念」に基づく教育機関
法文上は明記されていないと思いますが、周知の通り、私立大学は建学の精神、建学の理念を実現するための教育機関です。私立大学の存立意義は、建学の理念に基づく教育を実践することであるとすらいわれます。
大学教員の思想、研究、言論が、明白に建学の理念に反する場合、その大学教員は表現の自由に一定の制約を受けざるをえません。のみならず、私立大学はその教員を懲戒の対象とすることができます。就業規則の規定は大学によって違いますが、「本学の教育方針に反した者は懲戒に処す」といった表現が一般的でしょうか。
「大学教員の思想、研究、言論が、明白に建学の理念に反する」ことを証明することはきわめて困難なので、実際にはこれによって処分されるケースはほとんどありません。しかし、瀬尾氏のケースに限っていえば、学長の声明でも言及されている通り、明らかにキリスト教の教義と矛盾する記述がいくつかありますので、何らかの懲戒の対象となることは十分に考えられます。
ただし、くどいようですが、建学の理念を狭義に解釈するあまり、学問の自由をないがしろにするような大学は、大学としての魅力を失うことになります。
(3)私立大学は非営利ではあっても教育事業を遂行する経営体
私立大学は、非営利ではあっても教育事業を遂行する経営体である以上、経営・財務上のリスクを回避しなければなりません。したがって、大学教員の思想、研究、言論が、経営・財務上、無視しえないほどのダメージをもたらしうる場合、私立大学は何らかの対処をとらなければなりません。
その「対処」が懲戒であるかどうかは就業規則によります。というより、たいていの大学は、刑事事件で起訴されないかぎり、こういうケースを懲戒の対象とするような規定を設けてはいないと思います。しかし、大学の品位とイメージを守るために、ひいては在学生と卒業生を守るためには、懲戒にこだわらず、当人に広い意味での責任を取ってもらうということが必要でしょう。
ただし、あくまで「当人に責任を取ってもらう」というのが鍵だとぼくは考えています。27日のエントリーにも書きましたが、大学のイメージ低下を防ぎたいという経営判断から、学長が安易に謝罪してしまうというのは愚かなことだと思います。記者会見に同席させる、公開討論会を開催するなど、「当人に責任を取ってもらう」方法はいろいろと考えられるはずですけどね。
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5月1日のエントリーで、ぼくはこう書きました。
大学の業務であっても、大学当局に編集責任、監督責任があるとはかぎらない。なぜなら、大学にとって広義の「業務」とみなしうる言動であっても、それは教員のプライベートな知的活動から大学が反射的に利益を得ているだけなのかもしれないのだから。今回のエントリーで補足したかったのは、「大学当局に編集責任、監督責任がない大学教員の言論に対して、学長が謝罪するのはおかしい。しかし、大学教員の私的な言論であっても、私立大学の機能や理念に反したとき、私立大学がそれを処分することはおかしくない」ということです。
27日のエントリーが話題のサイトにリンクされたため、連休中は普段の5倍以上のアクセスがありました。ただ、せっかく来てくれたのなら他のページも読んでいってくれたらいいのですが、びっくりするぐらい直帰率が高いんですよね。その後、フォローアップのエントリーを3回も書きましたが、あんまり意味はなかったようです。まぁいいけど。
まだ連休の疲れが抜けきっていませんが、今日は学科の歓送迎会です。
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