僕が担当する科目のシラバスには、こういう一文を載せてあります。
この授業では、周りに迷惑さえかけなければ、授業時間中に寝ようが化粧をしようがメールを打とうがかまいません。高額な授業料でせっかく購入した教育機会ですが、どのようにムダにしようともあなたの自由です。(もちろん、ボクとしては“ムダにしたいと思わないほど魅力的な授業”を心がけていますが。)ウチの大学は、もともと私語が少ないほうだと思います。100名を超える大講義は少ないし、学生はまじめだし。また、ぼくはどちらかというと講義が下手なほうではないので、さらに私語は少なめです。おまけに、シラバスにここまで書いて、授業中に何度も繰り返し説明しています。
しかし、私語はやめてください。授業中の私語は、君たちが考えている以上に周囲の学生にとって迷惑なものです。映画館で後ろの席の客がずっと話をしていたり、禁煙のレストランで隣の席の客がタバコを吸ったりするとイヤでしょう。それと同じこと。他の学生の教育機会をジャマする権利は誰にもありません。私語をやめられない学生には、授業の途中でも退室してもらうことがあります。
それでも、ごく少数ながら、私語をやめられない学生はいるものです。完全に横を向いてしゃべり続けるぐらい興味がないなら授業に来なければいいとぼくは思うのですが、10%の出席点が惜しいのか、たとえ聞いていなくても出席していると安心できるのか、ともかく、わざわざ出席して私語をする。そして、何度注意をしてもしゃべることをやめない。
いっさいの私語を禁じるというのはやりすぎですが、度を越した私語は授業を崩壊させる原因ですし、教室を静粛に保つのは教員の義務ですので、注意に従わない学生にはいろいろな対策を講じることになります。席を移動させる、退室を命じる、最悪の場合は履修を止めさせる。こういう学生はどんな形式の授業でも同じようにしゃべる傾向がありますので、何らかの対策を講じることはたんなるペナルティとしてだけでなく、教育の面でも重要です。
とはいえ、退席を命じただけでは教育効果もへったくれもありませんので、後日、個別に面談を実施することになります。教員側も、強権を発動して後味が悪いので、そうやってフォローしておくと精神衛生上も好ましかったりします。ところが、そういう学生は呼び出しに応じてくれなかったりするので、どうやって面談を受けてもらうかということがまたチャレンジングなテーマなのですね。
ところで、授業中の私語について、野村一夫さんがソキウスでこう書いています。
新堀通也が指摘する学生側の問題点を任意に列挙してみると、(1)公私のけじめの消滅、(2)私的行動・レジャー行動としてのテレビ視聴の構図を授業に持ち込むこと、(3)大学入学以前の段階で子ども中心(本位)のあつかいを受け、許容されることになれていること、(4)学校の事なかれ主義の風潮のなかでマジメに対する冷笑的態度が多数派になっていること、(5)学生の大衆化(かつて大学への進学者は同年齢の一割だったが現在はほぼ四割)、(6)不本意就学・不本意在学・不本意出席、がある。他方、大学側の問題として、一八才人口減少にともなう学生消費者主義(大学は学生にサービスしなければならないという考え方)があるという。つまり、提供される「商品」を受動的に消費するだけという態度では、大学での学習は成功しないと説いているわけです。そのこと自体に異論はないのですが、「私語」の問題にかぎれば、少し論点がずれているような気もしています。
これらの背景にあるのは、消費による自己形成である。こうした傾向にいち早く気づき「モラトリアム人間」論を展開した精神科医小此木啓吾は、これに関して次のように説明している。「旅行であれ、デパートでの買い物であれ、映画鑑賞であれ、いずれも消費行動であり、気楽で気分本位な暫定的・一時的なかかわりである。"本当の自分"を賭ける必要のない遊びである。そして、人々は、その営みのなかで解放感を味わい、お客さま気分を楽しみ、このお客さま気分が自己評価を高め、人間的な満足感を誘う。」▼12成熟消費社会の申し子たる現代の大学生たちが「お客さま気分」を無自覚に教室に持ち込むとき、私語が発生するのは時間の問題である。
▼11 新堀通也『私語研究序説──現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。
▼12 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中公文庫一九八一年)五二ページ。
たとえば、「テレビ視聴の構図を授業に持ち込む」のが受動的な「お客さま気分」の代表格でしょう。でも、同じ娯楽的商品であるコンサートやライブ会場では、たとえ誘われて行っただけの興味のないライブであっても、友だち同士で話に夢中になって、最前列でしらけて座ったままということはないはずです。場の雰囲気に合わせてスタンディングし、他の客と一緒にウェーブしたりダイブしたり、参加型の商品を“適切”に消費する素地はある。つまり、たとえ演出された楽しみ方を受動的に受け入れているだけとはいえ、その範囲内で、場の空気を読んで能動的に参加することはできるわけです。
そうすると、お客さん気分で大学に来ることが私語の原因というより、講義という知的商品をお客さんとして楽しむことすらできないとき、私語で自分の存在を確認したがるのではないかと思うのです。
授業中に対処できる問題ではありませんが、ほぼ入試が意味を失ったユニバーサル・アクセス状態では、こういう学生に知的快楽を体験させてあげることが重要な課題になっているのだと思います。

僕が担当する科目のシラバスには、こういう一文を載せてあります。
この授業では、周りに迷惑さえかけなければ、授業時間中に寝ようが化粧をしようがメールを打とうがかまいません。高額な授業料でせっかく購入した教育機会ですが、どのようにムダにしようともあなたの自由です。(もちろん、ボクとしては“ムダにしたいと思わないほど魅力的な授業”を心がけていますが。)
しかし、私語はやめてください。授業中の私語は、君たちが考えている以上に周囲の学生にとって迷惑なものです。映画館で後ろの席の客がずっと話をしていたり、禁煙のレストランで隣の席の客がタバコを吸ったりするとイヤでしょう。それと同じこと。他の学生の教育機会をジャマする権利は誰にもありません。私語をやめられない学生には、授業の途中でも退室してもらうことがあります。
→全くのおっしゃるとおりであります。
他の大学講師らも「授業に受講に当たっての受講生の権利と義務(遵守しなければならないマナー)」についての一文をシラバスにのせるようにしてほしいです。「受講生に対する講師としての義務」についての一文ものせるようにしてほしいです。
大学側の問題として、一八才人口減少にともなう学生消費者主義(大学は学生にサービスしなければならないという考え方)があるという。
→むしろ月謝を払って勉強をしにきている人に対してはサービス業のようにやらないことのほうがおかしいのではないかと考えています。 大学教育というのはサービス業でできるところはサービス業でやるほうにしてほしいと考えています。
学生消費者主義という用語は私の大好きな言葉であります。
お客さん気分で大学に来ることが私語の原因というより
→「お客様」イコール「私語をする」とはいえないのではないかと思います。 映画館だって観にきている人はお客様であるけど私語をするのは他のお客様に対してのマナー違反であります。