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試験対策用の講義ノート #1

 Google Alertで「大学」を検索語に設定してニュースクリップとして利用しているのですが、今月3日にこういう記事があがってきました。念のためにウェブ魚拓でも。

 記事の配信元は「UNN関西学生報道連盟」ですので、記者は加盟大学の新聞部員でしょうか。「学生が執筆したノートを大学運営以外の者(ノート屋)により仲介、販売されている“講義ノート”」について、「買う学生側のモラルが問われている」と結論付けています。

 ちょっと結論の導き方が唐突というか安直ではありますが、まぁ、ムリのない締め方だと思います。授業に出席せず、他人の講義ノートを買って試験を受けるのは、単位をカネで買うようなものであって、まったくケシカラン……というのが一般には良識的な意見なのでしょう。大学プロデューサーズ・ノートもそういう論調ですね。

 ですが、以前こういう内容のエントリーを書いたことでも分かる通り、ぼくの意見は違います。より正確にいうと、こういう「良識」は現代の大学像にはもはやそぐわない、というのがぼくの意見です。

 以下、この順番で話を進めていきます。はたして一回で終われるかな…

  1. 知識の習得と、習得した知識の証明は別の問題
  2. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけずに入学してくる学生の増加
  3. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけさせるのも現代の大学の使命
  4. そもそも定期試験一発で単位を認定する制度は現代の大学にそぐわない
1. 知識の習得と、習得した知識の証明は別の問題

 優れた商品を製造する技術があるということと、優れた商品を売っていると広報する能力はまったく別のものです。いい商品が売れるとはかぎらないし、売れる商品が優れているとはかぎらない。マーケティングの常識です。

 学生のパフォーマンスにも同じことがいえます。

 毎回熱心に予習、復習を欠かさず授業に熱心に取り組んで、一生懸命ノートをとっている学生であれば、こちらが口頭で授業内容について質問をしてもそれなりに正解に近い解答が戻ってきます。ところが、そんな学生が筆記試験で常にいい成績をあげるかというと、そうではないのですね。

 筆記試験で高い得点を獲得するためには、習得した科目の知識とは別に、筆記試験に対応するスキルが必要だからです。

 たとえば、過去問題を入手して担当教員の出題傾向と採点基準を調べたり、3冊以上のノートを入手したりといった下準備のためには、対人スキルが必要です。また、出題形式にあわせて得点を稼ぎやすい解答方法をとったり、出題者の意図を読んだり、といった一般的な受験のテクニックを習得するには、それなりに場数をこなさなければなりません。

 ぼくの場合、語句説明では、以下の要素の数だけ加点する方法を採用していますので、ただバカ正直に定義(a)だけを解答しても合格点ぎりぎりにしかなりません。こういう基準はある程度どの科目でも一般化できるとはいえ、教員によってある程度の違いがありますので、やっぱり下調べ(をするスキル)が必要となるわけです。

  1. 正確な定義が書かれている
  2. 類概念や対義語の説明がある
  3. その語句が必要とされた背景が書かれている
  4. その語句の使用上の注意が書かれている
  5. その語句の使用例や使い方が書かれている
  6. その語句の提唱者が書かれている
 繰り返しますが、これらのスキルは、その科目をどれだけ一生懸命勉強したかということや、どれだけ知識を習得したかといったこととは、まったく関係がありません。

 だから、どれだけ真面目で熱心な学生であろうと、要領が悪いだけで、定期試験の成績が平均点を下回るケースはかならず出てきます。逆に、要領がいいだけで、ほとんど出席していない授業で「優」を獲得する学生も少なくありません。

 つまり、筆記試験一本で成績をつけるということは、「知識の習得」と「習得した知識の証明」とを比べたとき、後者のほうを重要視しているということを意味します。

 そして、ぼく個人としては、それが“正しい”採点の方法だとは考えていません。

 やっぱり長くなりそうなので、続きは次回以降ということにしましょう。


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コメント (3)

大学の将来が心配です:

こんにちは。興味深く拝見させていただきました。
記事を拝読し、いつも気になっていることを思い出しました。

日本では、大学の自治や学問の自由といった言葉がしばしば都合良く引用され、大学の教育活動は教員一人一人に責任があるかのように思われていますが、本来なら大学で、あるいは学部学科として責任を負うべきものです。
未だに、教員が勝手に「俺の授業は試験の点さえ良ければ出席しなくても良い」などと発言する日本の大学は、教育の質の担保という点ではかなり前近代的な、無責任な組織であるように思います。米国などと比較して、大学の教育レベルが低いと言われる背景には、こういった大学関係者の姿勢があるのではないでしょうか。

例えば、記事で書かれている「習得した知識の証明」ですが、最終的にこれを証明するのは、学生が取得する単位に他なりません。その単位発行の根拠になっているのは、45時間の学修で1単位を標準とする大学設置基準です。例えあなたがどのような考えをお持ちであろうと、本来なら、45時間分の学修を学生にさせる授業でなければ、単位を出してはならないことになっているのです。

もちろんこのような規程は形骸化していますし、私も教育はかけた時間ではなく生まれた成果で測るべきと思います。
ただ、こういった法的な前提を完全に無視して自説を主張されているように感じられましたので、おせっかいながら一言ご忠告させていただきます。

日本の大学教員には、まるで自分に単位の発行権があるかのごとくこういった問題を論じられる方が多いようですが、本来的にはそれは間違いです。そろそろ、日本の大学にも、そういうレベルで大学教育を論じる教員が出てきて良いと思うのですが、未だに「私のやり方」を語るだけの方が多いように思います。これでは日本の大学の教育力が抜本的に改善されることはないでしょう。心配でなりません。

はじめまして。

コメントありがとうございます。私の主張にほぼ全面的に賛成いただき、補強していただいた内容だと思いますw

にもかかわらず;

ただ、こういった法的な前提を完全に無視して自説を主張されているように感じられましたので、おせっかいながら一言ご忠告させていただきます。
なぜこういうことになるのか、不思議でしょうがありません。

うーん、どの記述からこういう感想をお持ちになったのでしょうか? ずいぶん誤解をなさっているようですよ。

また後ほど詳しく説明させていただきます。

まず議論の前提ですが、ぼくが所属している学部には以下のような特性があります。

  1. 教員一人当たりの学生数が少ないこと
  2. 学生は総じてマジメであること
  3. エンロールメント・マネジメントの観点から、教育モデルが学部全体でコントロールされていること
  4. 「厳格な成績評価」はその教育モデルを構成するもっとも重要な要件であること
  5. 学生の入学時点の学力が総じて低めであることから、期待水準に到達しようとすれば、自宅学習を含めた総学修時間は文系の他大学に比べて、明らかに多めになること
幸か不幸かは判断の難しいところですが、大手の総合大学とはいろいろな面で大きな違いがあります。ようするに、アメリカのコミュニティ・カレッジなんかと印象が似ているとお考えください。
出席点で努力水準を考慮する。小テストでこまめに熟達度を確認する。中間試験でリスクを分散してあげる。レポート課題でどれだけ知識を消化したかを認定する。そして定期試験で最終的な学力を調べる。
これはぼくが#2に書いた授業形態ですが、やはりアメリカでの教育を参考にしたものです。僕の担当科目の中には、試験問題候補をシラバスに明記している科目もありますが、それもアメリカのシラバスの優れた面を採り入れた結果です。

アメリカの教育モデルがあらゆる面で優れているとは思いませんが、参考にすべき点は多々ありますね。

さて、大方の総合大学では、少人数のゼミ以外でこういう授業形態を実践するのは不可能に近いでしょう。そのため、前提がかみ合わずに誤解されたのかもしれませんが、むしろぼくがブログに書いたことは、アメリカの教育実践を本学の実情に合わせてアレンジした教育モデルを前提としていることをご理解いただけると幸いです。

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2008年02月07日 14:20に投稿されたエントリーのページです。

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