昨日のエントリーは、「瀬尾氏のブログは教育目的を含むものであるため、たとえ私的な見解を綴ったものだとしても、大学の業務の一環とみなすこともできる」というものでした。
読みながら、何かおかしいなと思った方も少なくないと思います。組織の「業務」なのに「私的な言論」とはこれいかに? というのが一般的な感覚でしょう。
たしかに、一般の社会通念からいえば、会社の業務で私的な言論を公表するというのは考えにくい。会社の業務であれば、すべては会社を代表しての言動ということになりますからね。そのため、部下は上司の監督に服さなければなりません。部下のミスは、監督責任をもつ上司が謝ってオトシマエをつけるということも慣習的に行われています。
青学の学長が謝罪したことを当然視する人たちも、同じ論理ですね。(A)瀬尾氏のブログは教育目的を兼ねていたのだから、大学の業務の一端だといえる。(B)大学の業務であれば、大学当局に編集責任、監督責任がある。(C)大学教員が問題を起こせば、監督責任不行き届きということで学長が謝罪するのは当然だ、と。
でも、大学と一般の企業では、ずいぶん話が違います。
多くの大学では、そもそも学長や学部長に、教員の業務内容を監督する権限が明確には規定されていません。学長や学部長は「上司」ではないのです。合議機関(教授会など)の「議長」にすぎません。
それで困ることも多々ありますので、監督権限を規定に明記する大学も増えてきています。しかし、その場合でも、教員の業務は高度に専門的ですし、広範な自由裁量が含まれているため、実質的には監督権限を行使することは不可能に近いのです。監督・指導することが可能なときでも、やはり、学問の自由を尊重する立場から、権限の行使は容易ではありません。
しかも、学問の自由とは別に、もっとリアルな問題もたくさんあります。今回はその一つを紹介したいと思います。
授業を例に取りましょう。昨日のエントリーの表でいえば、13〜25が授業に関連する業務です。このうち不可欠な業務だとされているのは、17、18、20、22、23の5つだけで、残りの8つは教員の裁量に任されています。13〜25を全部やっても給料は増えないし、最低限の5つしかやらなくても責められません。
極端に言い換えると、賃金が支払われる業務(17、18、20、22、23)だけでなく、賃金不払業務(それ以外の8つ)を教員に自発的に負わせることで大学の授業は成り立っている、ということです。
賃金不払業務については、さすがに業務命令で強制的に従事させるわけにはいきません。教員が自ら、個性と熱意と創意工夫の発露として従事するものでなければならない。教員のプライベートな努力(≒裁量)によって、学生たちは反射的に知的メリットを享受するという構図です。そこに、「業務」でありながら、「私的」な要素が入り込む余地が生まれます。
授業だけでなく、大学教員の業務には公私混同が幅広く観察されます。クラスミーティングのために教員がポケットマネーを支出するとか、クラブ活動の顧問として学校行事のためにマイカーを走らせるというのはよくある話です。逆に、就業時間中に、業務かどうか明白でない社会活動を行ったりもします。そしてそれが業績の一部とされたりします。
公私(業務かどうか)の区別を明確にしようとすれば、確実にパフォーマンスの低下を招きます。それくらい、大学では、教員の私的な要素が重要な働きをします。教員はプライベートなお金と時間と労力を遣って教育や研究に携わり、その成果を還元するために社会活動を行っているわけです。
そろそろ、上の質問に答える準備が整ったと思います。
組織の「業務」なのに「私的な言論」とはこれいかに?
大学の業務であっても、大学当局に編集責任、監督責任があるとはかぎらない。なぜなら、大学にとって広義の「業務」とみなしうる言動であっても、それは教員のプライベートな知的活動から大学が反射的に利益を得ているだけなのかもしれないのだから。
P.S.
逆に、前表の17、18、20、22、23であれば、大学の権威筋が監督権限を行使できます。つまり、瀬尾氏が授業中に問題発言をして、学生から大規模なクレームが寄せられたような場合であれば、改善を指導したり、場合によっては何らかの懲戒の対象とすることができます。
追記(2008.05.02)
「事象の地平線」にて、「大学教員が発信した情報の責任は教員個人が負うべきである」理由について丁寧に説明されています。訴訟のリスク管理と絡めながら、表現の自由と大学による監督との関連を論じた迫力ある名文です。未読の方はぜひご一読を。→こちら
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