良くも悪くも、瀬尾氏のブログに起因する騒動はひとまずほぼ鎮静化したようです。やっぱり、組織的な受け皿のない情緒的な運動は長続きしませんね。マスメディアが加担すればもっと長引いたと思いますが、個人の集積にすぎないネットが運動の母体であるかぎり、せいぜい1ヶ月が限度というところでしょうか。
さて、ある言動が「反社会的」だからという理由で非難されることはめずらしくありません。刑法に触れるような行動はもちろん、カルトなどはたとえ違法な行為を行っていなくとも「反社会的」な存在だとして批判されることがあります。瀬尾氏のケースのように、ブログの記述が倫理的に逸脱しているということで「反社会的」だと抗議される場合もあります。
では、「反社会的」とはどういうことを指すのか?
じつは、言動の性質自体から「反社会的」であるかどうかを確定するための客観的な定義は、この世に存在しません。概念的には定義できないわけではないのですが、あまりにもあいまいで流動的な要素を含んでいるため、操作的には定義できないのです。例えば『新明解国語辞典』(三省堂)にはこう書かれています。
はんしゃかいてき(ハンシャクワイテキ)【反社会的】ここでいう「法秩序」や「道徳上の社会通念」というのは、社会によっても、時代によっても変化します。しかも、人によっても判断が分かれますので、いつでもどこでも誰にでも通用する「これが反社会的な言動だ」という基準は、存在しないわけです。
その社会の法秩序にあえて反抗したり道徳上の社会通念を故意に無視したりする言動をとることによって、社会の他の成員にまで好ましくない影響を与える様子。
社会によって基準が違うというのは、例えば、東京都知事が「中国人はDNAレベルで残虐」というコラムを新聞に書いた件ですが、ヨーロッパであれば即、政治生命が終わるほどの大きな問題発言です。国によっては確実に刑法に問われるたぐいのものでしたが、日本ではごく小規模な抗議があっただけでした。
また、時代によって基準が変化するというのは、例えば、2003年時点でディクシー・チックスが「テキサスから大統領がでたことを恥ずかしく思う」とイラク侵攻を批判したことは、当時のアメリカ社会においてきわめて「反社会的な発言」だったため、様々な迫害にあい、微妙な謝罪に追い込まれました。しかし、2006年時点にはすでに「勇気ある発言」が賞賛されるようになっており、2007年にはグラミー賞の関連部門を制覇しました。これは、音楽活動だけでなく、政治的な活動を評価されてのことだというのが一般的な解釈です。
ただし、定義できないといっても、もちろん、「反社会的」な言動がこの世に存在しないという意味ではありません。
社会には規範というものがあります。それに反する言動に対しては何らかの負のサンクション(制裁、罰)が作用します。破った規範の性質によっては、嫌味をいわれるといった軽いサンクションを受けるだけのこともあります。それに対して、重大なタブーに触れたりすれば、極刑を受けたり村八分にあったりという非常に重いサンクションが及ぶこともあります。そういう重い負のサンクションの対象となるような言動に対して、一般に「反社会的」というレッテルが貼られます。
つまり、「反社会的」かどうかを決めるのは、問題とされた言動の性質ではありません。その言動をめぐる社会の価値判断(規範)が「反社会的」かどうかを決めるのです。「反社会的な言動」というものが客観的に存在するわけではなく、社会の構成員の大勢が「反社会的な言動」だとみなせば、それが「反社会的な言動」になってしまうということです。
だからこそ、何らかの出来事に対して、ネットで世論を醸成する運動にも意味がある。社会の構成員の大勢を納得させられれば、負のサンクションを発動できるわけですから。Joi Ito氏がいうEmergent Democracyは、こういう運動の理想的側面に注目した概念ですね(伊藤譲一「創発民主制」)。
ただ、1990年代以降、日本において実際にネットの運動が奏功したケースを見ると、そのほとんどは「創発民主制」というより「排除型社会」を象徴するものばかりでした。包摂より排除が、許容より不寛容が、多様性より画一性が、日本のネットを支配している。
せめて大学だけは、こういう息苦しい社会潮流から遊離した側面を捨てずにいてほしいと強く願うばかりです。
P.S.
誤解されるといけないので補足しておきますが、今回のエントリーには、瀬尾氏への抗議を批判する意図はいっさいありません。あえていうなら、そのことが分からない方を批判する意図はこめましたが。

どこをご覧になって沈静化したとおっしゃっているのか。
擁護的なコメントをして、鋭い反論に遭うや即座に迎合的コメントを連発する学者先生の事実把握能力は、所詮その程度でしょうか。
この件では、青学及びその関係者は、大きなダメージを被ったと思いますよ。ある青学生の就職活動、最終面接までいきながら落とされた、という話を今週になって聞いたばかりです。
いらっしゃいませ。
まず基本的な事実ですが、ぼくの主張は、4月27日以降、コメント欄も含めて、まったく変わっていませんよ。
ただし、主張を細切れに補足してきたため、主張の一貫性をつなぐ論理が理解できず、「擁護的なコメントをして、鋭い反論に遭うや即座に迎合的コメントを連発する」と勘違いする方がいらっしゃるかもしれないと考えて書いたのが今回のエントリーです。
P.S.にてそのことを示唆したつもりだったのですが。
で、ご質問への回答ですが、ひとまず沈静化したと判断した根拠は、(1)検索キーワードの順位、(2)電子掲示板での投稿数、の2点です。
なお、就職活動の件は、ぼくへのコメントとしてお書きになるのは不適切だし(なぜなら、ぼくは瀬尾氏を擁護してはいません)、そもそも瀬尾氏の一件と因果的な関連があるかどうかも不明ですね。
控えめに見ても、論旨が一貫しているとのあなたのご主張は、強弁というほかありません。
「告訴さえあればほぼ確実に名誉毀損罪や侮辱罪に問われるであろう記述も複数ある。それでもなお、学長が一方的に断罪するべきではなかったと思います。」
あなたは、最初のエントリーにおいて、こう述べられた。しかし、青学学長の声明は、「一方的な断罪」ではないのだから、思い込みによる誤った主張というほかはありません。現に、読者の反論を受け、自ら「戦略によって変わってきますが、速攻で何らかの対応をしておきたいということであれば、青学が実際に採った「声明」の発表は悪くはないと思います」と、主張を改めています(但書をつけておられるが、本質的なものではなく、いわば負け惜しみと解すべき類のものでしょう)。
そして、これを発展させたのが、「「私的活動」で「懲戒」はありか?」というエントリーでしょう。
また、本文中で自ら後から削除を入れた部分をはじめとして、事実誤認もありました。
こうしたごく簡単な前提事実(とその評価)に誤りがありながら、論旨として「学長の謝罪は非」というのは、あなたが事実認識能力に問題を抱えているのでもない限り、擁護的なコメントであるとしか解せないでしょう。あえて事実を捻じ曲げているのだから。そして、コメントや、その後のエントリーは、反論を受けてこれに迎合するものとなっている。お世辞にも、「一貫」しているとは言えません。
なお、あなたが「沈静化」の根拠として挙げたものもまた、いずれも失当というほかありません。
この問題を注視しつづけている者は、検索キーワードなど用いないでしょう。また、電子掲示板での投稿数とは、どの掲示板の投稿を指しているのか。その掲示板の投稿数がどの程度であれば、客観的に「沈静化」したと言えるのか。あなたは「騒動」が「鎮静化」と言ったが、それは、所詮電子の世界のごくごく限られたあなたの行動半径の中での「沈静化」ではないのか。社会学は、こうした調査の手法についても細心の注意を払う学問であると理解していましたが、私の誤解だったでしょうか。
もちろん、このブログが、そうした
ごくごく限られた範囲のみを対象に発信しているのであれば、それでも支障はないのかもしれません。「騒動」が「沈静化」しつつあると言っているのに、「騒動」の内容をなしている青学生への被害は別論とおっしゃっており(「因果関係」云々は、不穏当であるので直ちに取り下げていただきたい)、その辺りからも、このブログが閉じた人々のみを対象に発信されていることを推認することができますし。
議論が続くようであれば、何でもいいので何か名前欄に記号を記入してください。匿名のままでは、他の匿名氏が登場したときに混乱しますので。
さて、できるだけ逐語的にコメントしてみます。
「強弁でないとしたらどういう論理的一貫性があるんだろうか」とは考えてみましたか? そういう知的柔軟性がないかぎり、なかなか生産的な議論にはならないと思いますよ。まず、(1)について。「『一方的な断罪』ではない」という主張の根拠が明示されていないので、意図がよくわかりません。大学を代表して声明を発表できるのは、学長や理事長など経営に責任を持つ立場の者に限られます。教務部長や学生部長、あるいは事務局長が代理を務めることはできますが、いずれにせよ学長や理事長の代理にすぎません。大学教員の言論に対して、公正に懲戒処分が検討すらなされる前に学長や理事長が勝手に謝罪してしまえば、「一方的な断罪」以外の何物でもないでしょう。
(2)について。繰り返しますが、主張ははじめからまったく変わっていません。「声明」はありうるが、「謝罪」はおかしい、という話です。27日のエントリーでも、共同記者会見などに言及しています。
(3)について。詳しくは書けませんが、そもそも27日以降の一連のエントリーを書きながら、「もし学内にこういうケースがあれば、懲戒を求めて運動する筆頭がぼくだろうけどなぁ」と思っていました。そういうぼくですら、学長が安易に謝罪してしまうことについては批判せざるをえない、ということです。
(4)について。訂正を入れた部分以外の事実誤認というのはどこのことでしょうか? 心当たりがないのでご教示いただけると助かりますが。(5)については、すでにエントリーで説明が終わっています。「わからないので教えてほしい」という質問なら(レトリックは攻撃的であっても)受け付けますが、「わからないので批判する」というスタイルのコメントであれば今後は勘弁していただきたい。
(6)は上の(2)〜(3)で回答しました。
調査の世界では、そういう論点を「妥当性の問題」と表現します。ある概念(=「炎上」)と、それを経験的に観測するための指標(検索キーワード順位と掲示板の投稿数)があるとき、本当にその指標で概念をうまく測定できているのかどうか、ということですね。「青学へのクレーム件数」というデータが入手できるのであればそれがもっとも適切な指標の一つになったと思いますが、現時点ではそれが公表されていない以上、「検索キーワード順位」と「電子掲示板の投稿数」は入手可能な範囲内では十分に妥当性を備えた指標だと思います。
ところで、もしかしてあなたは、「良くも悪くも、瀬尾氏のブログに起因する騒動はひとまずほぼ鎮静化したようです」という一文を、「瀬尾氏のブログに起因するすべての問題が一件落着した(ことにしたい)」という政治的意図を込めた言説だと勘違いなさったのではありませんか?
もしそうだとすれば、「騒動」の「鎮静化」の定義がぼくとは完全にズレていることになります。
このブログが「限られた範囲のみを対象に発信している」という理解は、あながち間違いではありません。学外からのアクセスは(27日のエントリーを除けば)、一日あたり20〜50固有IPアドレスというところです。上述の通り、世論を誘導する政治的意図もありませんが、世論を誘導できる政治力もありません。主たる読者は所属校の学生と教職員です。さて、あなたは「青学生への被害」を「騒動」のもっとも重要な指標とみなすべきだと主張されており、その具体例として採用を断られた事例を紹介されたということですね。
しかしですね、かりに、(a)最終面接にまで到達した場合、その会社では全員に内定を出している、(b)最終面接にて面接担当者が瀬尾氏の件に言及した、(c)青学の学生たちだけが不採用となった、という明確な事実があれば、それはまぎれもない「差別」です。瀬尾氏の問題の中に矮小化すべきことがらではありません。
逆に、上記の要素が不明なのであれば、安易に瀬尾氏の「騒動」の一環とすべきではありません。なぜなら、それはその会社を誹謗することにもなるからです。まぁ、会社名は出ていないので、今のところはかまいませんが。