すべてを二分法に回収する不気味

 「炎上」騒動の何がキモチワルイかというと、騒動をめぐるすべての言説が「擁護派/抗議派」という乱暴な二分法に回収されてしまうことですね。「ネットの『炎上』と偏見の形成」というエントリーでも間接的に触れましたが、ひとたび「炎上」するや、あらゆる言説を「擁護派/抗議派」という二分法に位置づける推論構造が言論空間を支配していく。そして、偏見によって捻じ曲げられたストーリーが多数派の認知を支配し、「事実」として語られていく。

 騒動に参加する者たちは、それがファシズムの原初的形態であるとは学ばなかったようです。

 今回の瀬尾氏のブログをめぐる騒動についても、容易には回答を出せない論点が多数含まれています。憲法規定(表現の自由)と市民社会の正義の矛盾、市民社会と大学との間の経済的共生と道義的対立の矛盾、経営リスクと学問の自由の矛盾、あるべき大学像と教員の資質の矛盾、等々。本来なら、論者が一定の結論に到達するときにもさまざまな限定条件や留保条件がつけられるべきテーマです。

 それが、言説が流布されたとたんに限定条件や留保条件が取り去られ、「擁護論/反論」と単純化され、もはや元のロジックの原形をとどめない状態に捻じ曲げられたうえで、気分まかせの乱雑な憂さ晴らしの材料として消費されてしまう。

 例えば、apj氏の「大学教員が発信した情報の責任は教員個人が負うべきである」という論考の、いったいどこをどう読めば瀬尾氏の擁護論と解釈できるというのか。

 不思議を通り越して、不気味としかいいようがない。

 ネットの世論は、必要に応じて主体的な市民が討議を交わし、複雑な問題についても“新たな理解”へと導く「創発民主制」の可能性を秘めています。その反面、気分まかせで情緒的な言説を垂れ流しあえば「創発ファシズム」を招来する危険性もあります。

 表現の自由は、ファシズムを強く反省するところから重要性が認められてきたということを、今一度、肝に銘じたいものです。

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このブログ記事について

このページは、bruinが2008年5月19日 11:46に書いたブログ記事です。

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