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ネットの「炎上」と偏見の形成

 家族が風邪を引いたので、連休なのにヒマです。

 ネットの一部ではまだ瀬尾氏への憤りがくすぶっているようですが、さしあたってこのブログへのアクセスについては平常化したようです。まぁ、もともとコメントが承認制であるせいか、実名を出していないせいか、実質的にはまったく影響はありませんでしたが。

 さて、最近は「炎上」と表現することが多いようですが、特定の個人や企業のサイトを対象とした言説が、ネット内で局所的に活性化することがあります。

 90年代は思想的な理由による攻撃が多かったのに対して、2000年代に入ってからは個人の逸脱的な行為が槍玉にあがることが増えているなど、理由は一様ではありません。「炎上」に参加する人々の動機も、純粋に義憤を感じてキーボードをたたく人もいれば、世論形成に参加できるという自己効用感に後押しされる人、ただお祭り騒ぎに便乗したいだけ人など様々です。また、話題性のあるブログの記述に対して自生的にコメントが沸騰することもあれば、2chやJ-CASTニュースによっていわば人為的に騒ぎが拡大されることもあるなど、発生の形態もいろいろとあります。

 でも、ひとたび「炎上」したときの様態には各種の共通点が見られます。その一つは、偏見の形成ですね。詳しい説明は省きますが、偏見の形成をともなわない「炎上」はありません。なぜなら、偏見の形成は、「炎上」の結果であると同時に、「炎上」が拡大するための必要条件でもあるからです。

 偏見は、単なる誤解とは違います。ただの誤解であれば、反証する事実を知れば解消します。しかし、偏見は事実に基づいて形成されるものでなく、情動的側面が強いため、たとえ明確に反証する事実を突きつけてもなかなか修正されません。

 例えば、「女は無能だ」と思っている男性がいるとします。自分よりも有能な女性が同じ職場にやってきたとき、ただの誤解であれば「すべての女が無能なわけではないんだな」と認識が修正されます。しかし、偏見であれば、事実を捻じ曲げてでも――「あれは実力ではなく身体を使って仕事を取ってきているんだ」と思い込むとか――反証を受け入れようとはしません。

 そして、偏見は同調によって伝染します。とくに「炎上」中の言論空間では、関心や怒りを共有する人々の間で爆発的に感染が広がります。

 そうなってしまうと、もうどんなに理性的に反論しようとしても、もう意味がありません。偏見によって捻じ曲げられたストーリーが多数派の認知を支配し、「事実」として語られていきます。反証する事実を突きつけたところで、聞き入れられる状態ではなくなっています。もはや、言論で騒動を鎮静化させることは困難です。

 では、どうすればよいのか? 一般には2つの対策がとられています。

(1)沈静化するまで放置する

 情動は組織的な受け皿がないかぎり持続しません。何らかの組織が背後にいないのであれば、通常2週間、せいぜい一ヶ月もあれば沈静化します。それまで待ってから、周到に反論したり、イメージを改善したりするための戦略に着手するということですね。

(2)情動には情動で対応する

 もちろん、情緒的に反論するということではありませんよ。それでは火に油を注ぐだけ。そうではなく、情緒に訴えかけるように謝ってしまうということです。とにかく早期に情動を沈静化させるだけのために、謝ってしまう。

 ネットの「炎上」とは違いますが、社員が就業時間外に起こした不祥事に対して、社長が泣きながら謝ったらもうそれで許してあげる、みたいなところが日本文化にはありますからね。この方法はけっこう有効です。

 ただし、「社員の私生活に社長が責任を持つのか?」という理性的な疑問を、ひとまず棄ててしまう必要はありますが。

 1と2のどちらを採用するかは組織の哲学しだいでしょう。でも、大学なら、1をとるか、第3の対応策を考え出すか、いずれにせよ安易に2を選択するのはやめてほしいものです。

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 「炎上」騒動の何がキモチワルイかというと、騒動をめぐるすべての言説が「擁護派/... [詳しくはこちら]

コメント (2)

ぴよ:

ちゃんと理解できているかどうか不安なので、とんちんかんなコメントをしていたら ごめんなさい。

あのですね、雇用する、という事は、その「仕事力(生産性)」に対してなのか、「人間性」に対してなのかじゃないかと思います。
学校の先生は明らかに後者のウエイトが大きいかな。
顧客(学生)は、先生が何をくれるのか、先生の何を自分のものとして習得したいか、そこには学業なり、人格なりの「尊敬の対象」が必要になってきます。それが大学の商品です。
だもんで、先生を雇用する学長はそこら辺も見極めて、懐をでかくしてほしいですね。

対して(って事もないか)一般企業はいかに自分のところに流儀に従って仕事をしてくれるか、従順である事を第一に雇用するでしょうから、自ずと私生活はどうでも、まず、ねずみを取るネコを、ですかね。

いちばんの「問題」は、一般の社会通念と、大学の論理がズレていることだと思います。

たとえば、ぴよさんは「教育者は業績より人格優先で採用されるべき」と判断されました。たぶん、それが一般的な価値観だと思います。

でも、実際に大学で採用が決定されるときは、ほぼ業績だけで審査が行われます。どういう人なのかわからないと不安なので、知人に人となりを尋ねてみたり、面接を行ったり、模擬授業をやってもらったり、ということもやりますが、9割がたは業績評価で決まります。

また、世間的には問題のある人物であっても、研究や授業をやらせてみると、めちゃくちゃ面白かったりすることってよくあるんですよね。

ぼくはこういうズレ(大学独自の論理)を積極的に評価するスタンスですが、いざトラブルが発生したときは、世間に理解してもらうのがたいへん難しい。

大学の論理を捨ててしまえば、ある意味楽ではありますが、ただ教育をこなすだけの経営体になりさがってしまう危険性があり、大学としては自殺行為に近い。

瀬尾氏の問題は、とてもチャレンジングな課題を突きつけてきますね。

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2008年05月03日 16:30に投稿されたエントリーのページです。

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